ギリシャのライスプディングと自動車教習
アルマイトボウルの真ん中にギリシャライスプディングを一つ
ライスプディング、とはギリシャ特有の食べ物だと最近まで思っていた。そして私がギリシャのライスプディングを初めて口にしたのは、自動車教習の途中だった。
留学中、自動車の運転免許を取ろうと思った。日本では免許を取得しないまま渡米して調べたら、当時、私が留学していた米国東部の州では、「指定された教習官に定められた回数の実地含む運転教習を受け、筆記試験受験を申し込み、定められた日時に受験、合格すれば運転免許書が交付される」ということだった。通っていた学校のカフェテリアの掲示板には、「自動車教習受講生募集」と書かれた紙が常に数種類貼られていて、それはワープロで印字されていたり手書きだったり。たいていがA4サイズの幅を少し広くしたくらいのレターサイズ。紙の上の部分に教習方法や金額が示されていて、紙の下、三分の一程度が縦に7、8センチ、2センチほどの間隔でイカの脚のように切られてあって、人が通るたびにひらひらしていた。その切り込みがある部分一枚一枚に(自称)自動車教習官の氏名と連絡先が書いてあり、興味があったらイカの脚を一枚切り取り、直接教官に連絡して申し込むという流れだった。複数の貼り紙からその教習官に電話をしたのは、「寮まで送り迎えします」と書いてあったことと、講習料金が良心的だったからだ。
講習初日、寮の前で約束の時間に待っていたら、白いセダンが乗りつけてきて目の前で止まった。てっきり日本の自動車教習所にある、それとわかる自動車が私を迎えにきてくれると思い込んでいた私は、その車を無視していた。ほどなく白いセダンからティアドロップの大きなメガネをかけ髭を蓄えた男性が運転席から降りてきて、私の目の前で車の屋根の上に貼り付いていた自動車のナンバープレートぐらいの大きさの板をパタリ、と持ち上げて、板の下についていた割り箸のような脚で立たせた。「教習中」と板に大きく書いてあった。男性は私の名前を呼んだ。私は、彼の声が電話で教習を受けたいと申し込んだ時の、どことも分からないアクセントのある忘れられない声と同じだったので「そうです、私が車の教習を受けたい者です。」と答えた。
「そうか、よし。じゃあ、運転席に座って。」白いセダンの運転手(教習官)は言うと、さっさと乗ってきた車の助手席に座ってドアを閉めたのであった。私は言われるがまま、運転席に乗り込んで、ドアを閉めて、シートベルトを締めた。「これがアクセル、こっちがブレーキ。」と教習官が指差した私の足元には、確かに踏み込むものが二つ。そのうち一つは、金属のバーで助手席にあるもう一つの踏み込みペダルとくっついていた。「じゃあ、俺が言う通りに走ってみようか。で、危なかったら俺がブレーキ踏むから大丈夫。ほら、こうやって。」と彼は自分が座っている助手席の足元のペダルを踏んだ。すると、私の足元にあるペダルの一つが連動して踏み込まれた。(ああ、こっちがブレーキか。)私がなるほど、と感心している間に教習官は「どこの国から来たの?」と私に聞いた。日本から、と答えると「そうか。ホンダ、ホンダ、ホンダはいい車だよな。」と笑いながら言って「じゃ、はじめようか」と続けた。始めるって、いきなり公道?私は驚いたが、これがこの国の自動車教習なのか、とりあえず何かあったらブレーキを踏んでもらえるし、と恐る恐る寮の前のロータリーを二周ほど運転してから、公道に出た。
今から思うと恐ろしいが、その時は、不思議とこんなものか、と運転していた。それから決められた曜日、時間になると教習官は私が住んでいた寮の前にやってきて、街の中や高速道路を運転して、寮の前に戻り、私は運転席で講習料を払い車から降りる、ということを州が決めていた回数、続けた。
教習コースは毎回違っていた。2回目以降になると、教習を受けている間にどこかに立ち寄ることがお決まりになった。初めは教習官の自宅。「娘に買い物を頼まれたから家に寄らないと。ホンダはいいよな。」教官は決まり悪そうに笑って、自宅前に車を停め車中にいるよう私に指示し、家に入って戻ってきた。ある回には、何かをビニール袋に入れて寮の前に現れ、教習中に立ち寄ったのは病院だった。「おじが入院していてさ、これを届けるわけ。車の中で待っていてくれ。」と、ビニール袋を持って病院に入っていったこともあった。
私は毎回異なるコースを運転するわけで、それなりに緊張していたが、彼は横の助手席からずっと私に話しかけてきた。彼がギリシャからの移民だと言うこと、人生いろいろあると言うこと、日本に行ったらホンダの車は安く買えるのか?など。黙っていて欲しい、と私は思ったが、徐々に「これは、彼独自の運転時の集中力を試す教授法なのか」と考えるようになってしまった。とにかく私は早く運転免許が欲しかったから、学校の授業より集中してハンドルを握り、周囲を注意しながら彼が左と言えば左、右と言えば右へ曲がり、ここで買い物をするといえば店の前に路駐して教習官が家族に頼まれた用事を済ますことを待った。
州が定める回数の教習もこれで最後、という日、彼のナビに従って車がたどり着いたのは、ギリシャレストランだった。「一緒にレストランに入ろう。友達がやってる店だ。」教習官は行って、さっさと店に入ってしまった。私は生まれて初めて、米国にあるギリシャレストランに入った。お昼過ぎくらいの時間だったと思う。ボックス席が8つほどにカウンターもある、なかなかな広さのレストランに、客はいなかった。教習官はギリシャ語(おそらく)で、店の奥から出てきた男性と握手を交わし肩に手を当てて挨拶のようなしぐさをすると、ボックス席に二人で座り込んで話し始めた。それは大声で、笑ったり、深刻な顔でお互いの肩を叩いたりしながら長いこと続いた。途中で、別のボックス席に座っていた私に気づいて、教習官は友達だというレストランの男性に何か言った。腰にエプロンをした彼はレストランの奥から、透明なブツブツした粒の入った、カラメルのないプリンのようなものが入ったガラスのカップとスプーンを持ってきた。「ギリシャのライスプディングだよ、ここのは美味いんだ。」教習官は笑って言うと、レストランの友達を見た。そして、また二人は話に戻った。
その後、無事に教習を受講し終えた私を待っていたのは、州の法律が変わったということだった。米国籍以外の住人が運転免許を取得するには、試験に合格した後、他の国で免許を持っている場合はその免許証を提示、免許を持っていない場合は「免許を持っていないという証明書」を出身国政府から発行して提出することが条件に加わったのだ。在ボストン日本国総領事館まで問い合わせたけれど「免許を持っていない証明書」など日本政府が発行するはずもなく、私は免許を取得できずに留学生活を終えることになる。
ただ、あのギリシャレストランで大音量でかかっていたギリシャの音楽を耳にしながらギリシャのライスプディングを食べたことだけは、あの日にしか体験できなかった特別講習だったのだ。と、思うことにする。
2022.1.25
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